「近江雁皮紙」とともに
大津市上田桐生町は江戸末期より製紙(近江雁皮紙)が行われ、明治末期からは金・銀箔をつくる技術が導入され、紙と箔を結びつけて金糸・銀糸の加工が盛んにおこなわれていました。京都に近く伝統工芸に関連した生業が根付いているところで、経文用用紙、金糸、短冊、扇子地、色紙等の需要があって発展するところとなりました。
明治中期には約10戸、大正時代には17戸の紙漉き業者が生計を立てていたが、時代とともに全国的には機械生産の紙の普及で元来の手漉き和紙は圧迫されていきました。
昭和のはじめには手漉き和紙業者は4戸となり時代の流れのなかで転業し、戦中、戦後をとおして現在は成子紙工房様が近江雁皮紙の伝統を引き継いでいます。
このような製紙業者の盛衰のなかで金糸・銀糸用の紙が近江雁皮紙の伝統を守り継いでいました。こうした紙の歴史とともに、金・銀箔をつくる業者が桐生にはたくさんいて、一時は桐生の里が金糸・銀糸の特産地となっていました。
このような時代背景のもと、古川与助商店は昭和10年に金糸・銀糸の加工業者として地場の紙漉き和紙業者と平金紙等の生産に携わり、一時戦争によって中断していた撚糸事業を昭和26年より再開し、伝統を支える紙の金箔・銀箔の撚糸業者としてアルミ箔押し、水引材料の貼り合わせ等の仕事を行う。これらは全て手作業で行っていた。
昭和38年に会社組織に改変し、今まで手作業でしていたものを機械化し、金銀糸のスリッターを始め、水引材料の貼り合わせ加工の機械化を進める。
昭和50年頃からは金銀糸の需要低迷から金銀糸のスリッター技術を利用し水引スリッター加工に活かし、水引専用機械スリッターを作る。
さらに、昭和60年頃からは水引スリッター技術を和紙のスリッター技術に活かし、婦人服素材の仕事へも拡大するとともに和紙専用機械を導入し、スリッター事業の拡大を行う。
平成5年頃からは和紙スリッター技術を活かし、不織布のスリッターに技術を利用し、不織布専用機械を導入し、業界への生き残りと伝統の継承に努力しております。
小さな盆地に250戸の農業主体の集落であるが、京都に近い地の利を生かし、伝統工芸に関連した企業として、細々とではあるがしっかりと地域に根付いています。
戦前にはここ桐生に金糸・銀糸加工業者は13戸ありました。
現在も金銀糸に関係する会社も地元には2~3社あり、今後は、地場産業の伝統を守りながら時流に合った新しい物づくりをしていく所存です。
沿革
- 昭和10年
- 創業者の古川与助がアルミの箔押しの手押しを始める
- 昭和17年
- 戦争のため事業中断
- 昭和23年
- 2代目古川勇が会社を継ぐ
- 昭和25年
- 戦争終結し事業再開
- 昭和37年
- 株式会社に組織変更(撚糸事業開始)
- 昭和40年
- 箔押しを機械化
- 昭和50年
- 水引スリッターを開始(長野県飯田市に行き開拓)
- 昭和60年
- 大型ボビン巻き機械導入(ゆくゆく色紙の淵になる素材を切る)
- 昭和61年
- 和紙のスリーッター機械を導入(婦人服素材の和紙カットを始める)
- 昭和62年
- 2台目の和紙スリッター機械を導入
- 平成 7年
- 大切りカット機械導入(水引の材料を均等にカット)
- 平成10年
- 着色機械を導入(水引材料の素材に前工程作業をする)
- 平成14年
- 撚糸機械事業を縮小し中国に機械を売却
- 平成15年
- 3代目河村朱美が代表に就任
- 平成15年
- 不織布用スリッター機械導入(ヨーロッパに商社を通じて輸出)
- 平成18年
- 工場を新築移転
- 平成18年
- 大阪マイドームおおさか展示会に初参加(350社参加)
- 平成19年
- 和紙タオルなどの販売を開始
- 平成21年
- 長浜環境ビジネスメッセ参加
- 平成22年
- 和紙商品、糸等販売開始
- 平成23年
- イギリスのテントロンドン展示会参加